Marzo 8th, 2010
ブラジルのTVドラマや、ディスカバリー・チャンネル の海賊版のようなドキュメンタリーや、退屈なパネルディスカッションの傍らに、「ビッグ・ブラザー」 の系譜を受け継いだテレビルポルタージュのスタイルが共存する。小さな画面で、裁判官の指示の介在なしに、わたしたちは隠しカメラで撮影された市民を見て、電子メールの受信箱に入っているメッセージの暴露に立ち会う。わたしたちはまるで国家の厳格な目に検閲されているガラス張りの家に住んでいるかのようであり、電話会社までが顧客の会話を録音し、1,100万人の無気力な視聴者にそれを発信する。
この公然な詳細分析の最新スタイルは、医学的症例の詳細について話す医師たちに白状させることである。それは診察で話されたプライバシーを侵害することであり、司祭が懺悔の秘密を暴露してしまうのと同じくらい深刻なことだ。パパラッチや政治警察がのぞき魔 にとても近い人物のみに基礎をおいている限り、公式の意見にあえて背く人たちの住居や冷蔵庫の中の写真が露見されてしまう。まるで裸でいることが「悪事」の明白な証拠であるかのように、秘密が明るみに出されるのを期待して、何らかの身上調査書に非順応主義者の裸体が現れたとしても、わたしは奇妙なことだとは思わないだろう。
公式の意見内で反感を引き起こすために、前後関係や編集されたフレーズや不都合な観点から取り出されたイメージは、これらのテレビ情報を組み立てる幾ばくかの技術である。それらの中に「犠牲者」にインタビューをしたものはなく、そうすることで平凡な視聴者が、犠牲者と批判的な意見を共有するのを避ける。このようなタイプのリアリティ番組 を作り出す粗悪なテレビ制作者の劣悪なやり方のために、市民に委ねられた技術は、自分たちの生活の壁もまた透明にさせ始めた。時間をかけて観察されてから、今日近くの別の空間を見るために穴が開いているのを確認できる。
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Marzo 5th, 2010
私の同胞市民はロボットのように雑貨店へ行い、職場ではおとなしくぼーっと時を過ごし、投票所では希望のなく投票をする。彼らの人生は、縮小し続けるパンの配給を受け、酷い生活ですらカバーできない賃金を受け取り、候補者を選出するための会議で手を上げる間に過ぎていく。現在の選挙方法で選ばれた中に、キューバでの生活に重くのしかかる日常の問題を解決できるような人はいないだろう。市民は立候補者のことは何も知らない。彼らの写真や経歴もほとんどわかっていない。彼らの経歴には「学歴」や、「貧しい生まれ」だというほとんどおきまりの文句が満載だが、議席を得た後の計画や目標などは一言も書かれていない。
面白いことに、地域の議員になろうとする人はたいてい、キューバ共産党の過激派で、有権者に対し、自分の義務より党の規律を強要する。彼らは政府に対して私達を代表するのではなく、公共機関に私達の声を反映するのでもなく、むしろ上から落ちてくる悪いニュース、規制の伝送チャンネル、少数で決定された命令を伝えるだけだ。30年以上存在し続けながらも、これらの「人民の力」を代表する者たちは、効率よくゴミを収集したり、ベーカリーに商品の質を良くさせたり、下水があちこちで溢れないようにすることができていない。私達の社会にある様々な意見を一つにまとめることもできていない。彼らは管理能力ではなく、忠誠心を証明することによって今の地位に至っているのだ。
今日は、私が住んでいるコンクリートブロックエリアの候補者を選ぶ会議がある。召喚状は数日前に届き、テレビでは私達に最適で、有能な人を選ぶよう呼びかけている。しかし、実行不可能で差別的なことが既にわかっているメカニズムなど、私は全く信用していない。私は、向かいの家に住んでいる、言葉遣いが強く、目標がはっきりしている隣人を支持したいと考えている。しかし、変えることだけに傾倒しているような「反体制者」の選出は未然に食い止めるよう命令がでている。そんなわけで、指名は同じ議員になる可能性が非常に高い。10年以上も私達に約束し続けているソリューションが、彼の手によってもたらせるものではないことを十分わかっているのに。彼はこの意味のない選挙の安定した候補者で、私達は挙手したり、投票用紙に印をつけなければならない単なる置物にすぎない。
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Marzo 1st, 2010
その女性はスタンプを持ち上げ、あなたの出国許可が押されていないスペースへついに押印するために、書類へそのスタンプを近づける。「あなたには旅行が許可されていません。」と彼女はあなたに告げ、島内での幽閉をあなたに宣告するそのフレーズを、オフィス内にいるすべての人が聞く。別の月には、申請者たちは、同情を求めるあなたの目と自分たちの視線を合わせないようにするために、足元を見つめる。通りがかりの軍人たちは、「出国を許可されないだけのことをなにかしたのだろう」と咎め見下すようにあなたを問い詰める
最後の1分まで、もしかすると内務省からの資料がまだ準備されていないだけではないかと、あなたの反抗的な過去が表沙汰にならないのではないかと思っていた。しばしばあなたは、女性秘書があなたの関係文書を見直していたまさにその瞬間にピザを取りに行くのではないかと、そして彼女の胃痙攣のために山積みの承認文書の中にフルスピードでそのピザを置くのではないかと推測していた。午後3時に自分の時計を見る役人の中に引き起こす、溶けたチーズとトマトソースの効果についてあなたはよく知っている。
しかし、国家の怠慢というオプションは、今回は機能しなかった。南へ旅行するための最初の申請書をあなたが提示した時から、あなたの事例を探知していたのだ。ある中尉クラスの隊長は、あなたの手に最終的にあるものを見て嘲笑っていた。肉声で自分の意見を言い、ペンネームを使わず論文を発表し、自由人として行動できるとあなたが信じていた後、すべての壁、すべての鉄格子、すべての南京錠を意識させる位置にあなたは及んでいた。
あなたには前科はなく、一度も法廷で有罪判決を下されたこともなく、よく犯してしまう罪といえば、せいぜい闇市でチーズや牛乳を買う程度なのにもかかわらず、罪を償い続けているのを確認したところだ。あなたの判決とは、何人かのバカ正直者が橋だとみなし、実際には克服しがたい穴だとは思わない海の帯に閉じ込め、この列島の柵のうしろにあなたを残らせることだ。あなたを出国させる人は誰もいない。なぜなら、あなたは今朝タンスから取り出したブラウスを着ていると思っていても、背中に番号を縫い付けられた囚人だから。あなたは「動かない巡礼者たち」の監獄に、居残りを義務づけられた人たちの独房にいる。
ある声が窓を通して、黙ることなく、多少自分を詐称し、旅行を可能にするためにマスクを被ったあなたを非難する。「刑務所が丸ごと取り壊しでもされない限り、おまえは明かりを見ることはできないぞ!」
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Febrero 27th, 2010
人生は決して普通にはならない。悲劇が起きる前には戻らない。錯覚を起こさせるように、穏やかな時にも悲劇がよみがえってくる。
私は自分のスケジュール帳を開いて、私の生活を、ブログ、Twitterのメッセージを再開しようとするけれど、何も浮かんでこない。この数日間はとても緊迫していた。レイナ・タマージョの顔、死体安置所の前の影、息子の長旅のために彼女が用意して服を着せた彼女の顔だけが私の心に浮かぶ。そして水曜日のイメージが折り重なる。逮捕、殴打、暴力、Eugenio LealとRicardo Santiagoが権利を要求した牢屋の隣にある尿の臭いのする牢屋。そのあとは、目に入るものを理解することなく眺めるだけのマネキンのように、私は怒りにまかせて文字を入力し続けた。
だから、理路整然とした、節度のある文章など書ける人などいない。私は叫びたくてたまらない。だけど2月24日に私の声は枯れてしまった。
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Febrero 23rd, 2010
今日の午後、オルランド・サパタ・タマージョの死後数時間後、レイナルドと私は、検死が行われたBoyerosストリートにある法医学局に入ることができた。
国家安全局の職員が警護するなか、私達は故人の母親であるReinaに接触し、以下に掲載した質問を尋ねた。
痛み。私達には怒りがこみ上げる。彼女には悲しみ、そして忍耐。以下は、下手な映像で明りも暗いが、苦悩に満ちた母親の悲痛な証言である。
<映像の和訳>
ヨアニ・サンチェス:お悔やみを申し上げます。いつ彼が亡くなったのか、彼の最期の様子、あなたの今のお気持ち、それから検死官から開放された後の予定を教えていただけますか。
レイナ・ルイサ・タマージョ・ダンヒア: 私の名前はレイナ・ルイサ・タマージョ・ダンヒア。政治犯のオルランド・サパタ・タマージョの母です。彼は東刑務所のハバナ病院に勾留されていました。昨夜、彼はHermanos Ameijeiras病院に移送され、午後3時に亡くなりました。
私はとても胸が苦しいのですが、なんとかこの苦しみに耐えています。彼が亡くなるまで傍にいることができました。今は彼に衣服を着せる勇気があればと思っています。
私達はHolguin 地方のBanes、Embarcadero道路6番に行き、そこで通夜を行います。
私は世界に私の苦しみを伝えたい。私の息子は計画的に殺されたのだと思います。息子は監禁中ずっと拷問を受けたのです。彼の様子は見るに堪えられない。家族全員が酷く苦しんでいます。彼がこの刑務所に移される前、18日間も水を飲むことなく、Camagueyにいたのです。息子は86日間に及ぶハンガーストライキの後、死にました。彼はキューバにおけるもう一人のPedro Boitelなのです。(Pedro Luis Boitelは1972年にキューバで懲役10年の刑を受刑しているときハンガーストライキで亡くなった)
深い苦しみの最中ですが、何の財産も子供も妻もいない私の息子、二番目の子供に起きたことが二度と起きないように、不正に受刑している他の受刑者や兄弟達の開放要求を世界に訴えたい。ありがとう。
*日本語のニュースサイトにも関連記事が掲載されています(以下は例):
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100225/amr1002251253006-n1.htm
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Febrero 23rd, 2010
スペイン政府のイベロアメリカ担当外交長官パブロ・デ・ライグレシア氏による、次のEU・中南米サミットの発表に関するインターネット経由の生中継に立ち会うために、わたしはこのイベントにいくつかのリンクを張った。
これはラテンアメリカのブロゴスフィアのために、西インド諸島協会により組織された活動である。
こちらにそのビデオと、下部には起きていることへコメントするためのリンクが、さらにすべての行動を簡略化されたテキストへ転写されたリンクが張ってある。
閲覧者がコメントするためのリンク
http://www.lasindias.coop/presentacion-de-la-cumbre-eurolatinoamericana-a-la-blogsfera-latinoamericana/#respond
起きていることすべてを簡略化されたテキストに転写されたものは、ここで見ることができる。
http://www.lasindias.coop/presentacion-de-la-cumbre-eurolatinoamericana-a-la-blogsfera-latinoamericana/
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Febrero 23rd, 2010
あなたは自分の体を売る売春婦になることも、国家安全の尋問者になることもできた。必需品は、シャンプーの小瓶一本や数個の石鹸と引き換えに体を許してしまう程のものであり、それはいつも身近にあり得ることだ。ただあなたの体型が、その交換のためにはあまりにも虚弱で、観光広告の逸品なトーンを探し求めてやってきていたそれら外国人たちのために白い肌を持っていただけだった。金銭目的の性的交渉のために体にぴったりとした服を着るために、そして貧困に苦しむ家族を連れ出すためにホテルの外へ飛び出すのに、「これくらいほんの少し」足りなかった。
その上あなたは9年生が終わったら、禁制や極貧が邪魔立てしていた家から逃れるために、カミロ・シェンフエゴス軍学校へ行くことを考えていて、制服に袖を通そうとしていた時でもあった。革命軍事省や内務省のメンバーが享受していると思っていたそれら小さな特権を手に入れるのを条件に、気取った唇の軍人となる準備をしているとあなたは思っていた。ある友人の適切な忠告は、あなたが「気をつけ-っ!」と叫ぶことと、カラシニコフ自動小銃を休むことなく連射することをやめさせた。しかし、もし1990年のあの午後、あなたが「命令と塹壕の間に置かれたら君は何をする?」という質問を聞いていなかったなら、おそらく今ごろビジャ・マリスタの閉鎖された部屋の中で、あなたは誰かを脅していただろう。
あなたは不法入国者になることも、自殺者になることも、大臣の愛人になることも、政治の監察官や政治犯になることも、憲兵や犠牲者になることもできた。あなたが暮らしていた90年代の、有価証券の大損害、増大した副次的な状況といった、あの危機を無傷で越えることは不可能だった。あなたの何かが、街角で待ち伏せしていた赤いライクラに、中尉の肩章に、あなたがなることができた可能性のある人たちに宿り、そして偶然、不測の事態、あなた自身の嫌悪感がそれらの人たちからあなたを救った。
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Febrero 19th, 2010
今日ハバナで起きている、キューバ・アメリカ間のモバイル通話に関して。
5回に及ぶフロリダ海峡横断挑戦後、カルリトス はとうとうアトランタに着いた。2回のチャンスでは、アメリカの沿岸警備隊によって阻止され、島へ戻された。アメリカ利益代表部においてビザを合法的に申請するために渡された黄色の封筒を、数カ月の間彼は保持していた。しかし彼は、祖母と共有していた部屋や、地区の警察官による災難を後にするために、もっと早急な手段を選んでいた。3年前の8月13日にも、彼はキューバ側で捕まっていた。ボートのスクリューが壊れ、コヒマルの集落の留置場で旅は終わった。そこで彼は罰金を科せられ、その日以来私服警官が、仕事の関連性の捜索を彼に強く要求するために、訪れるようになった。
船乗りとしての乏しい才能を証明した後、この32歳の若者は、いまだにキューバ人にビザを求めない数少ない国の1つであるエクアドルへ行くことができた。この南米の国は、今日新たな人生を始めようとしているアメリカ領土へ入るための踏み切り台であった。彼の渡航を助けていたGPSと、決して人道的ビザの要求の書き込みをしなかったあの申込書を、友人たちの手に委ねた。決まった目的地へ向かっていったのではなく、夢破れた40歳代になる恐怖に怯えていたのだ。年をとってから、自分の住まいや、どうにか生活していくための国家の資源が抜き取られるのを回避する賃金を手にできると予言するような楽観主義さえなかった。
カルリトスは他のキューバ人たちと同じように、子供たちが物質主義的になるときにわたしたちにした約束を待つことができなかった。彼はアルコールやその他薬物で気持ちを静めながら、家の前の歩道に座って年老いていくのは嫌だった。脱走のすべてのパターンを計画したが、後に家族の残りを連れ出せるという希望の下、最終的にはキトに到達するための切符の代金を小父が支払った。夜の闇の中に近づいてきて、硝石と石油のにおいのするキューバへ向けて手錠をかけられた彼を運んでいく大型ボートが、いまだに彼の夢に出てくる。眠れずに、女友達のすぐ近くに借りた小さなアパートにまだ自分がいることを確認するためにあたりを見渡す。枕に頭を載せ、陸地の夢を見ようとしながら、「あるときは不法入国者、いつも不法入国者」とつぶやく。
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Febrero 18th, 2010
「生涯をフィデルと共に」
大学の空間は墓地のように、弾圧の悪魔に侵入されることはないと何度も何度も聞いてきた。これら弾圧の悪魔は、生徒たちを守っていた文学や数学の公式の領域に入ることができずに、玄関前のステップの周囲を飛び回っていたとわたしは想像していた。しかし想定の免疫性は、ただ単にわたしの想像の中に存在していただけだった。というのもキューバの歴史は、わが国の大学を苦しめた相次ぐ違反を示唆するからだ。パラス・アテナの視線を前にして、イデオロギーの罰は、知識と学識に割り当てられたそれらのキャンパス内に、幾度となくなだれ込んだ。
20世紀前半を通して、様々な学生の抗議デモは、教室机から生み出された社会の活力を明らかにしつつ、大統領の辞任を要求するまでに至った。ラ・コリナ周辺の城壁では、後の革命の粛正によって無気力状態に追いやられた若者による、反対スローガンがいまだに観察される。生徒たちを前に権力の代表となるために、大学生連盟は1回以上街を揺り動かした思想や活動の温床であることから手を引いた。組織はこのようにしてすべての反抗的な特徴を失い、もはや指導者たちはカリスマ的な影響力や人気によってではなく、政治的な信頼性によって選ばれる。「大学はすべての革命家のために」というスローガンは、修了証書をもっと確実に獲得する手順としての仮面を押しつけるのに寄与した。
ラウル・カストロが権力の座についてからのこの2年、イデオロギー的な動機による追放は、上げ調子な傾向で、高潔な学校教育の総合施設で続けられてきた。プリマベーラ・ネグラの囚人の娘、サイリー・ナバロが教室に戻るのを邪魔されたとき、惨めな状態となっている学生連盟は、断末魔の苦しみから壊死へと変質していた。ほんの数日後に、派閥主義の石碑は、国の中で改革を強く要求したことにより、教員としてグループからマルタ・ブラボを解任してから、大学生連盟の残骸を隠した。鎮魂曲のコードは、社会コミュニケーション学部の問題を討論するためにフェイスブック内にグループを開設したため、教育活動からダリオ・アレハンドロ・パウリノを罷免したものたちにより作曲された。これらの悲惨な出来事により、ある時期にはフリオ・アントニオ・メリャが指導的地位にいたこの連盟は、今日大学キャンパス内を自由に闊歩する教条主義と不寛容の怪物の手にかかって死んだことを確認した。
*フェイスブック内に、これらの横暴に対して、せめて潜在的に抗議するために、“Basta de expulsiones en las Universidades cubanas”(「キューバの大学での追放はもうたくさんだ」) というグループを創設した。
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Febrero 15th, 2010
ステップ、雪、林檎、そして薪を不揃いな形に割っていた斧の響き。わたしたちの幼年期には、それらの不釣り合いな画像と音を取り入れてきた。70年代、80年代のキューバ国内におけるソ連の過度な存在によるものだ。チェコとブルガリアのアニメを見て、わたしたちは寒さに震えていた。一方で、外では熱帯の太陽が、わたしたちがキューバにいることを思い出させた。わたしたちの何人かが、単音節の「fin(終)」に関連づけて「koniec」を最初に覚えたところ、勝利の兵隊やほほ笑みを浮かべたロシア農民たちの映画とは別に、ある日熊が渡航してきて、わたしたちに預けられた。
1991年以降、ロシアの出版社ミールによる大量の印刷物は、放置されホコリだらけで覆い隠され、古本屋で発見できるのみであった。しかし今年の2月、国際ブックフェアは19回目を、キューバの経済と進展を数十年にわたって助言、サポートをしてきた国に割り当てた。昔わたしたちに石油を二束三文で売る一方で、わたしたちの砂糖に天文学的な値段を支払っていた同志たちは、スーツとネクタイを身につけて戻ってきた。かつては補助金の給付のために、今回は、マルクス主義と無関係なテーマに関する、輝かしい色で印刷された著書のマーケティングのためにこの島に下り立った。
カバーニャ要塞の空き地では、東側から届いた新しいタイトルを購入するために、何本もの長い行列が交差する。子供たちはあちらこちらで、輝く小麦の穂や、巨大な耳当ての帽子を被った人々が現れるページをめくる。しかし、すでに同じではない。時としてわたしたちの人生において、そのイコノグラフィーを抱えていた強制参加は、今日のこれら子供たちにとって、異国風の単なる珍しいものに過ぎない。子供の考えでは、モミは椰子に、そして狐はヤモリに取って代わることはない。彼らにとって唯一ロシアだけは、はるか遠く違った地域なのだろう。
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