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あてどなく

Febrero 7th, 2010

わたしたちは、水増しされた数字や、何かうまくいかなかったときの秘密主義、そして決してわたしたちの懐具合が反映されることのない国内総生産に慣れてしまっている。数十年もの間、経済情報は、数字や分析で一杯のページの後ろに、問題の深刻さを隠す能力があった。不正確な金融学の学士たちの間で、オスカル・エスピノサ・チェペのように、ある数字の虚偽を思い切って暴こうとして、失業と汚名を着せられる「パジャマ計画」というペナルティーを課せられた人が何人もいた。

今週、ヌエバ・パラブラ誌に司祭ボリス・モレノによって発表された、信頼に値し立派な主張と言える分析の解釈は、わたしたちに根付く衰退に関しての神経症を増大させた。「キューバという小舟はどこへ向かっていくのか?経済環境へのまなざし」という暗示的なタイトルでこの著者は、島の物質的、金融国家としての急激な崩壊をわたしたちに警告する。わたしたちを不安に陥れる言葉、もしそうでないとしたら、それはわたしたちが非生産性と欠乏の水に長時間浸っているという悪いニュースに対して、聴覚がそこまで鈍感になってしまったということなのだ。

最初にとられる最も重要な措置について、経済学のマスターとわたしが一致するのは、「どのような型の報復も連座させることなく、すべて国民が意見を言う法的資格を認める政府の正式な約束。わたしたちは、考えや意見の交換を制限する形容句を、わたしたちの周囲から排除しなくてはいけないだろう。」ということである。これを読んでからわたしは、門の正面に非難集会を引き起こすことなく、私企業を容認する必要性についての意見を声高に叫ぶ、引退した会計士である隣人の女性を思う。そのように何かをはっきりと口に出すのは難しい。それは分かっている。しかし、いつの日か多くの人が、「海外超大国の給料目当ての日雇い労働者」と咎めを受ける心配なしに、自分たちの取り決めを作り始め、解決に着手し始める理念をわたしは心に抱いている。何て巨大な資本をキューバは回収するのだろう!

提案や理屈のみで財源が満たされることはないが、主意主義と排除は中身を空にするのに寄与するのみだということを、わたしたちの経験は指摘する。

「ガーディアン・エンジェルス」

Febrero 5th, 2010


「夢見ることはまだ合法だ。」

すべての場所で警察官を見かける。わたしの網膜に彼らが焼き付いているのか、もしくは最近数カ月、彼らの数が警戒すべく増えたということなのか、わたしには分からない。彼らはメルセデス・ベンツのトラックで行き、街角に3人ずつ立ち、街のいろいろな地点で自分たちのシェパードを見せ付けたりする。最新型で丸みを帯びた数百台のカメラが、上の方からわたしたちを見ている間、これら制服警官たちは、車線で、そして傷んだ歩道でわたしたちを統制する。無から現れて、わたしたちがもっと必要とするときは姿を消す。書類なしで運搬されたセメント袋の探知に関しては鼻がきき、犯罪件数が増えに増えている孤立した地区に、夜現れることはめったにない。

また、平服の警察官もいて、それら「ガーディアン・エンジェルス」は、どんな行列やカルチャーセンターや人の群衆の中にも決まって参加している。彼らを探知することはもはや簡単ではない。なぜなら、縞模様のチョッキや格子縞のシャツや軍隊カットのヘアスタイルを、そして変装のために、色に配慮した組紐から、ズボンよりもっと上に飛び出したトランクスに至るまで変更してしまったからだ。今は携帯電話を持ち、サングラスや革のサンダルを身につけているが、情報を得ようとしているその場の状況に上手に溶け込めないために、どうしても場違いな雰囲気を醸し出し続けている。彼らは映画祭にも足を運ぶが、フェリーニの映画を見たことはない。画廊にいるにもかかわらず、自分たちが見ている作品が具象画なのか、それとも抽象画なのかを見極める能力は持ち合わせていない。要するに、彼らはカムフラージュすることを教え込まれたのだが、芸術やデモといったそれら「プチ・ブルジョア的な弱さ」の前にさらす軽蔑の引きつり笑いを消すことはできなかった。

しかし、わたしがもっと恐れているのは、胸に番号付きの金属プレートを装着した人たちの集団でも、情報を作成する詐欺師たちの集団でもなく、わたしたちみんなが内側に抱えている抑制的な警察官だ。わたしたちに思い切ったことをさせないように、そして非難や意見を積み重ねるたびに、無関心な妻たちを殴るように指摘するための恐怖のホイッスルが鳴っているということだ。自己検閲の学校を通り、わたしたちに困難をもたらす道のりを指し示すときの、抜け目のない兵士だ。いずれにしても刑法には2つの簡潔な条項があり、1つ目は、問題に関わるな、そして2つ目は、君がしたことは何も変わることはない。もしある日、わたしたちの頭の中で響くブーツの蹴る音を黙らせようという気持ちを込めて立ち上がったなら、鉄格子や法廷、そして州の刑務所の冷淡さが思い出されるだろう。わたしたちの肋骨に向けて警棒を振り上げる必要はない。なぜなら、「落ち着きなさい、待っていればよい。」というフレーズの元、恐怖の手段を講じ、わたしたちの体をあらかじめ痛めつけ、動けなくする空手の技を遂行できるからだ。

2つの通貨と4つの市場

Febrero 3rd, 2010

その子は8歳で、とても大きな混乱を抱えている。今朝、母親はその子の手に25センターボ硬貨を持たせ、言った。「ここに5ペソあるから。」その子は、表には共和国の紋章の透かし彫りが、裏にはトリニダの街の高くそびえる塔がある光り輝く表面を見た。経済的に分裂病の国で生まれたにもかかわらず、いまだにキューバペソから、それによく似た兌換ペソへの交換に慣れていない。学校では、女性教師はこのことについて話してこなかった。それを説明するためには、1課目で半年分の時間が必要となるからだろう。家でも多くは明らかにしない。大人たちにとって、ポケットの中に2種類の通貨が混ざっている状態が、まるで普通のことのようだ。

キューバには、4つの様式の市場と、そこで支払いをするために2つの異なるタイプの通貨が存在する。毎朝主婦たちは、それほど大げさではなく、どの場所で買い物をしてどの通貨を使うのか、大体の計画を頭に描く。それは米ドル化と後の「幻影」、兌換ペソを受け入れた15年間に影響を受けた、数秒で導かれる算数の演算だ。交換は絶えず行われていて、給与としてわたしたちに渡されるそれら象徴的な紙幣そのものを、別の貨幣より24倍の価値があるとして受け取る店員たちもいる。パイナップルを1個買うために、国の通貨で、労働1日分の賃金に当たる10ペソを支払うことも、いわゆる大衆的な「チャビート」で50センターボを支払うこともできる。何人かの旅行者はそんな混乱を気にすることもなく、10兌換ペソほどで果物の女王を購入したりする。その日商店主は早々に店を閉め、思い違いの幸福な家へ帰っていく。

わたしの息子の世代は、1つの通貨だけで生活するとはどういうことかを理解できていない。不条理なことを受け入れるようにする脳の領域や、容認できないことを処理するニューロンのつながりにおいて、彼らは特殊な発達をしているとわたしは思う。幼少期から2つの言語を覚え、大きな努力なしでそれらを挿入する人の能力で為替の交渉を実行する。いろいろな言語の習得はいつも、何かしら豊かになるだけだが、金融の2重構造を引き受けることは、2つの人生が起こりうることを受け入れることだ。そのうちの1つは、国のセンターボのように押しつぶされて灰色で、また、住民の上級部分への立ち入りが全面的に禁止されている別の1つは、20兌換ペソ紙幣風に、色と透かし模様で満ちているように見える。

発禁情報

Febrero 1st, 2010

広まる噂、公式文書に変わっていくささやき、そしてすでにみんなが知っていることを数週間後に報じる新聞。わたしたちは、情報制限から公式メディアの検閲と同時進行に流れる真の「自由化」へと耐え忍んできた。わたしたちのグラスノスチ(情報公開)は役所や省庁から促されたものではなく、携帯電話やデジタルカメラや抜き出し可能なメモリーからわき出したものだ。わたしたちに粉ミルクや洗剤を供給してきた闇市でさえ、今ではインターネットや、禁止されたパラボラアンテナで受信したテレビ番組の違法接続を提供している。

そのようにしてわたしたちは、先週ベネズエラで起きた事件を知るに至った。わたしの携帯電話は、学生の抗議デモやいくつかのテレビ局の閉鎖について伝えてくるあまりにも多くのメッセージにより、ほとんどフリーズ状態になってしまった。それらの手短なトップニュースのコピーを、わたしのアドレスブックに載っている全員に、ウイルスの伝達を模倣したネットワークで再送信した。わたしは数人に感染させ、彼らは彼らで100人もの人たちに情報のバチルスを植え付ける。固定のシステムを使わず、それぞれの状況を前に突然変異し、順応していくため、ニュース拡散のこの手口を止める手段はない。グランマ号や円卓やDOR*が覇権を持つキューバの場合、言葉は違った暗示的意味を持つが、それはアンチ覇権主義的である。

2009年3月の追放状態という境遇の中、「ラディオ・ベンバー」を通して、わたしたちは公式発表の数日前に、精神病院での殺人を知った。そしてある日、新聞での報道が許可される前に、「結末」を迎えたのを知ることになるだろう。主要な報告をわたしたちに提供する政府の決定によるものではなく、自信過剰なテープや内容のないニュース番組を飛び越えることを可能にしてくれる技術発展により、情報の流量は5倍に増えた。日ごとにわたしたちは、テレビニュースによって咀嚼され、政治色を付けられた離乳食を受け入れなくなっている。数カ月前からわたしの周辺で、キューバビジョンやその他国内のチャンネルに周波数を合わせていない人を数百人知っている。彼らは禁止されたテレビしか見ない。

ノキアやモトローラの画面、カドミウムの輝く表面やメモリーフラッシュの極小の本体は、わたしたちの間違った情報をずたずたにする。数十年もの間生じていた怠慢と虚偽のベールの別の側面に、わたしたちを仰天させ、引きつける未知の新しい広がりがある。

*国のすべてのメディアにおける情報政策を決定する、中央委員会の革命指導部門。

私以上に恐れている人たち

Enero 30th, 2010

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今週の金曜日は最初から複雑だった。それは否定しない。その朝、私達はブロガー・アカデミーの写真の教授であるClaudioのことを想っていた。政府の職員が、DES(国家安全部)のイニシャルの付いたカードをほとんど見せもせず彼を逮捕したからだ。Voces Cubanasの最初の記念日を祝うため、クラスの後、私達は自宅で小さなパーティーを開いた。この短期間に今や26のサイトが開設されている。ハグしたり笑ったりしている中で、誰かが私に注意するように言ったのを覚えている。「今のようなシステムの中じゃ、国家の攻撃から身を守る方法なんてないわよ」と、自分自身の恐怖を吹き飛ばすつもりで、私は彼に言った。

それは夕方6時ごろ、私達は家族の集まりに向かう途中だった。私の姉の36回目の誕生日を祝うためだった。父は、鉄道員達を祝う日の早朝に、彼女の最初の泣き声を初めて聞いたのだった。「年寄り」の活動に参加するのを嫌がる青春期のテオも、今日は私達と一緒に出かけた。私達が期待していたのは普通の誕生会だった。写真を撮って、ロウソクを吹き消して、「ユニア誕生日おめでとう、いいことがたくさんありますように」というつもりだった。しかし、影から私達を覗いていた、たくさんの視線は、別のプランを用意していた。内務省とラウル・カストロのオフィスから数ヤード離れたBoyeros Avenueの角で、3台の車が私達の乗ったボロボロのロシア製のラダを止めた。

「23番ストリートに絶対行くんじゃないぞ、ヨアニ。今日は青年共産党連合がイベントをしているんだ」と中国製のGeelyから数人の男が出てきて叫んだ。私は材木で殴られた辺りに鋭い痛みを思い出した。昨年の11月に似たようなことを体験したが、今日は奴らに私の頭を、そして息子まで車に連れ込むようなことはさせてはならないと思った。体格のいい男が車両からでてきて、脅しを繰り返し言い始めた。「お前の名前はなんだ?」というのがレイナルドの問いかけだったが、その男はわざわざ答えたりしなかった。テオのひょろっとした体からは、皮肉なフレーズが飛び出した。「名前が言えないのは臆病だからさ」。いいえ、テオ、そうじゃない、彼が自分の名前を言えないのは、彼が個人としてではなく、単にもっと上の方にいる別の人達の声としてしか認識されていないからなのだ。プロのカメラマンが私達の動きを全て撮影し、攻撃なポーズや、品のない言葉や、怒りが度を超すのを待っていた。恐怖の注入は短いものだったが、誕生日は苦いものとなった。

私達はどうやったら無傷でいることができるのだろう?どうやったら一市民が国家から身を守れるのだろう?国家には警察や裁判所、すばやく反応する旅団、マスメディア、誹謗したり嘘をついても許され、公にリンチしたり、市民を敗北者に変え、許しを乞うような人間にしてしまう力があるというのに。彼らは23番ストリートで何が起こると思っていたのだろう?ブロガーを数人逮捕できるとでも思っていたのか?

私はタイプもできないほどの恐怖を感じたが、今日、私と家族を脅した人達に言いたい。人間は一度あるレベルの恐怖を味わったら、もうそれ以上のことがあっても怖くないということを。私は書くことも、ツイッターをすることも止めない。ブログを閉鎖するつもりはないし、自分の頭で思考する習慣を捨てたりはしない。何よりも、彼らが実は私以上に恐れているのだと信じることを止めるつもりはない。

国家と国民

Enero 27th, 2010

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私達のアイデンティティが、ある島に封じ込まれてからずいぶん時間が経った。この細長いテリトリーで生まれ、育ったことは、ナショナリティを持つための重要な条件ではなくなってしまった。私達は、五大陸にわたって散らばっている国民である。まるで世界地図というキャンバスの上に、経済が疲弊し自由がない不安定な手でスプレーをかけたかのように。

それがどんな思いなのか私にはわかる。様々な国のキューバ大使館に行き、アメリカの刑務所にいる5人の内務省職員の解放を支援する署名を依頼することがどんなに難しいかよく知っている。彼らは何かできることがないかなどと尋ねたりはしない。以前、私は欧州の大使館で一人の若い男性が泣いているのを聞いたことがある。役人たちは、許可されていた滞在期間の11カ月が過ぎてしまったため、彼は母国へ戻ることはできないと、繰り返し説明していた。逆に国内では、飛行機に乗りこの島を去るために必要なホワイトカードを申請したが否認される人々をたくさん見かけた。旅行規制は日常茶飯事となり、他の国を知ることは、政府から与えられる特権、政府が授与する特典だから、旅行を規制することは当たり前だと考えている人さえいる。

この列島に入られる人、出ていける人を決定する数少ない人々が、カンファレンスセンターで今日から始まる「国家移民会議」の参加者を選んだ。私は二日間行われるこの会議の議論のポイントに目を通したが、彼らがキューバ移民の大半が抱えている懸念や要求を発表するとは思えない。議題の中に、他国に移動する人に対する所有物の没収をやめてほしいという要求が含まれてないし、国外居住者に投票権を再び与えることの必要性についても触れられていない。会議に参加した多くの人達が自国に戻るときの制限事項を解消するという発表も含まれていない。

この島に住むキューバ人達は、会議に出て、投票や意見を共有することができるわけでもなく、会議は公式に封印されていて、主催者は硬直している。「国家移民会議」が、皆が苦しんでいる移民の辛さについての発表会になるのを避けるために、国内グループも国外グループも束縛され、区切られている。会議を企画した権力者たちがいつもは議員が集う巨大な部屋で聞きたがっているのは、不平や批判ではなく、大きな拍手喝采なのだ。

修繕

Enero 24th, 2010

家庭生活は報われない責任を押しつける。流し台の蛇口が漏れる、部屋の電球がつかない、ドアの鍵が調子悪い、そしてついてない日、「なんてこと!」冷蔵庫が壊れる。不安に駆られながら、冷凍庫から水が滴り始め、この機械特有のうなり音が止まったことを確認する。わたしたちのある知り合いが先週、そんな規模の悲劇を味わった。

早朝に彼は一番近所にある住まいの修理屋へ電話をかけたが、誰も電話には出ず、話中音が鳴り響いていた。彼はそこまで行くことにした。受付では一人の若い女性が自分の爪を丹念に磨いていた。重い気分で家電品に起こったことを彼女に話し、症状を説明した。その上大胆にも診断まで下そうとしていたのだが、その瞬間に彼女は話を遮り、おそらくタイマーが原因であること、そして倉庫にはその部品の在庫がないことを彼に告げた。さらに修理工場には2ヶ月延長になっていたキャンセル待ちのリストがあることを説明した。人生経験のある理知的な一人の男性として、困窮したその客は適切な口調で、「それで、それは別の方法で解決できないのですか?」と正確に質問を告げた。彼女はマニキュアを塗ることをやめて、修理工を大声で呼んだ。

値段が決まり、みんなが満足する形で決着した。正午に冷蔵庫は再び動き始め、修理工はほぼ2ヶ月分に相当する賃金を手に家へ帰っていった。その晩、五つ星ホテルでバーテンダーをしているそのわたしの知り合いは、闇市で購入したラム酒のボトル数本を仕事場に持ち込んだ。それらを使って極上のモヒートと人気のあるピニャ・コラーダを作り、観光客たちはそれを飲んだ。その観光客たちは、自分たちが注文することで、冷蔵庫の修理によってふさがれた穴、バーテンダーの家計を苦しめていたその巨大なへこみを埋めるのを経済的に援助していたことは知るよしもなかった。

囲い込み

Enero 22nd, 2010

ある豪華なホテルのキャバレーで毎晩、あるヨーロッパの企業家が桁外れの注文をしながらテーブルからテーブルへ渡り歩く。彼は会食者たちに近づき、請求書がいつ届くのか会食者たちに説明する。懐に忍ばせたカラーの配給券で彼は支払いを済ませる。代わりに彼らはその企業家に、後に遠くへ持ち運べるようにするためにドルかユーロに変換できる兌換ペソで代金を渡す。この男は、多くの外国人投資家に対して国の管轄区域から利益を引き出すのを妨げる金融の囲い込みの犠牲者だ。すべてに絶望させないために、キューバの権力機関は実質価値のない紙切れで払うことで、島内での消費を容認している。

凍結資金の痛ましい出来事は今日、1995年の海外投資に関する法案の通過によりわたしたちの経済の現場への参入を準備していた多くのビジネスマンに関係している。ここで生まれたわたしたちには全面的に禁止されている会社運営を彼らは享受していた。1968年の革命攻勢が靴磨き職人の椅子まで没収していた国で、彼らは新たな企業家階級となっていった。獲得に成功した大量の資本利得は、売春婦たちや借家や国家安全保障のメンバーたちにとって、とても魅力的な目標に変わっていった。彼らの多くは、豪勢な料理やとても若い女性を配置した最も高いレストランで見かけられた。その他少数派の人たちは自分の従業員たちに追加の贈り物を渡した。キューバ・ペソで国営企業が従業員たちに払っていた低い賃金を埋め合わせするためだ。

「発展した同業組合」のこれら代表者たちは、いつの日かV字型にカットされたケーキの様になるだろう現場に今後参入できるという条件で、資本を少々失う覚悟をしていた。しかし、契約書にサインをして、彼ら代表者たちとシャンパンを分かち合った人たちは合意後、特別期間が終わったなら根絶されるだろう必要悪で仮の迂回路をもっぱら模索していた。約束されたいくつかの保証の後、数カ月前に、彼らに「もう払うことはできない」と繰り返し、空っぽの金庫を彼らに見せた。突然これらの企業家たちは無力さと、日々キューバ人が詰め込んでいる喉の真ん中で引っかかった叫びを感じ始めた。とはいえ彼ら企業家たちはまだ、国の景気後退に直面しているわたしたちのように、そんなに孤立無援の状態でいるわけではない。外国のパスポートが、飛行機での出国と、すべてを忘れることを可能にしているから。

狂った人たちと悪党たち

Enero 19th, 2010

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狂った人達は、簡単に悪党の餌食となってしまい、街角からひどいヤジを叫ばれ、幻覚症状を悪化させてしまう。私のブロックにいる男は、2つの紙で作ったボートを持って、決してどこにもいかない珍しいレガッタで何時間もレースをしていた。彼の母親はベネドリルとジアゼパムで彼を落ち着かせていた。Mazorraというハバナ精神科医の認知症病棟に彼を送るまでは。

この女性の頭は、Boyeros Streetにある精神クリニックで行われていた度重なる脅しと物不足というイメージでいっぱいだった。患者は半裸状態で、壁は排泄物にまみれ、監視が緩いために非道な残虐行為の舞台となっていた。1959年、その写真が雑誌に掲載され、その後、テレビで、清潔なシーツ、専門的なセラピー、かつて恐怖でしかなかった顔を変えた政治的な看板までレポートされた。ただし、初めにも言ったが、狂った人達は簡単に悪い奴らの餌食となってしまう。

経済危機に襲われた90年代以降に行われた資源の転用は、Mazorraに無慈悲だった。近くのストリートに住む住民達には、病院の毛布、食料、医療、タオル、薬が流れた闇市のおかげで貯えがたっぷりあった。患者達は、それは日常の苦しみの一部だと思っていた。映画「ガスライト」のように、ほとんどの部屋から電球がなくなっていた。必要不可欠なものは全て盗まれ、壊れた窓、詰まったトイレ、壊れたベッドに気付くものは誰もいなかった。この惨めさを表現する公認ジャーナリストなど、今度はいなかった。

しかし、公式プレスは、放置したことによると思われる低体温と疾病により26人の患者が死亡したことを隠すことはできなかった。本当は40名だという人もいる。彼らは一月の寒い日に、この終焉を避ける力もなく、一か所に固まって身を寄せ合って人生を去っていった。ずるい奴らは、泥棒からの分け前で家を建て、自分達が使い込みしたことは誰にもわからないだろうと思っていた。今日、野次馬を近付けないために警察が配置されている中で、病院の責任者達は捜査を受けている。まだ写真は出ていないが、この患者達の無力な表情が、あの過去の写真の中の患者達の表情とどれほど似ているだろうかと考えると心苦しい。

画像(1959年)は以下から取得
http://cubalagrannacion.wordpress.com/2010/01/17/el-hospital-de-dementes-de-mazorra/

子供の名付け

Enero 18th, 2010

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「子供にどんな名前をつけたらいいと思う?」と妊娠6カ月で男の子が生まれる予定の友人が私に尋ねた。最初に勢いで答えたのは一般的な「José」だったが、彼女の不満そうな顔をみて、伝統的でない名前を考えなければならなくなった。私はMateo、Lázaro、Fabiánなどを含むすべての名前を並べてみたが、妊婦を喜ばせる名前はなかった。もしこれが20年前だったら、70年代や80年代に生まれた多くの人のように、赤ちゃんは「Y」の付いた名前をもらっていたことだろう。しかし、アルファベットの最後から二番目の文字を使うという異国風の習慣は終わってしまったようだ。

数十年の間、キューバ人は自由に子供の名前を付けた。それは、彼らが人生で味わえなかったことだったからだ。市役所で新生児の名前を記入する時は、灰色の配給市場や、私達の存在に広まっている国の管理は消えてしまう。両親たちは言葉で遊び、有名な野球選手の名前「Vicyohandri」のような早口言葉を本当に作った。英語とロシア語とスペイン語の「yes」を混ぜ合わせた「Yesdasí」という変な言葉を考え出した人達もいる。

幸いなことに、ここ数年は子供に名前をつけるときには穏やかな風が吹いている。まるで研究所の実験かのように名付けられた世代は、古い名前に戻りたいと思っている。だから、数日後、友人は私に電話をかけてきて、彼女の決断を教えてくれた。赤ちゃんはJuan Carlosと名づけられるそうだ。電話線の向こうで、私はほっとため息をついた。子供に名前を付ける行為に健全さが戻ってきたのだ。